引っ越し

 

新居











小さな頃、母さんがよく本を読み聞かせてくれた。母さんの膝の上に乗って本の読み聞かせをねだったことを朧げながら、でも確かに覚えている。

俺が好きだった本の中にイソップ寓話の『アリとキリギリス』がある。

俺は何度も何度も『アリとキリギリス』の読み聞かせをねだり、その度に母さんは優しく俺に読み聞かせた。

「‥‥おしまいおしまい。」そういって読み聞かせを終えると、毎回目をキラキラさせて言ったらしい。

「母さん!僕はキリギリスさんになりたいな!」

その話を聞いた時、思わず吹き出した。

三つ子の魂百までとは言い得て妙で、ひとまず二十四までこのまま来てしまった。

母さんはそんな俺のことを心から心配しているらしい。心配かけて、ごめんね。

この春、家を出て、独りで生きていくことになったけど、母さんにこんな俺でごめんねと、直接謝ることが出来なくて、でも心配しないでねと、LINEも出来なかった。

そんな俺に、母さんから短歌が送られてきた。


「羽音立て 深蒼掻き分け 乗る風よ

君の大空 グラスホッパー」



育ててくれてありがとうと、いつか伝えられるように、文章にします。

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これは、そんなキリギリスのお話です。

そのキリギリスは春からの住まいを探していて、色々と条件を思案する中でカウンターキッチンの家に住みたいと思っていました。


キリギリスは嬉々としてその話をしてまわりましたが、「一人暮らしのカウンターキッチンなんて邪魔なだけだよ」「分かりやすい奴だなぁ君は」と仲間のキリギリスに笑われてしまいました。


けれど、その時にキリギリスは思いました。

「カウンターキッチンが邪魔なことには、カウンターキッチンの家に住んでみないと分からないじゃないか。」


帰り道にそんな事を考えながらふと記憶の中に沈んで行きました。


"この世の中は、手に入れるまでキラキラ輝いているけれど、手に入れて仕舞えば輝きを失ってしまうものばかり。"


そのキリギリスにとって、稲大もそうでした。いわゆる落ちこぼれだったキリギリスは考えていたのです。稲大に合格すればすべてが変わり人生が光り輝くはずだと。

けれど稲大に入ってもそんなことはなく、キリギリスは燃え尽きた気がして何もできなくなってしまいました。

キリギリスは気がつきました。稲大に合格した事実なんかより、稲大に入るまでの過程で得たもののほうが遥かに大きな自分の要素を占めていたことに。

燃え尽きて稲大のなかに居場所を見つけられなかったキリギリスは、しばらくすると自分で仲間を集めはじめました。

居場所を見つける事より居場所を作る事の方が難しくても、キリギリスは居場所を作る過程を楽しみました。



キリギリスは呟きました。

「持ってみないと要らないかどうかなんて分からないじゃないか。」


キリギリスの母親はいつも彼に言いました。

「今ある以上に欲しがることは辛いことだよ。」


キリギリスは心の中でこう返します。

「今ある以上を望むなら、そのために努力できなければ苦しいかもしれない。」


気がつくとキリギリスは叫んでいました。

「苦しくたっていい!」

「俺は俺の望む今ある以上のために努力できるし、そして持っていない道中だって楽しめるんだ。」


キリギリスはグラスホッパー。非力でも、滑稽でも、力一杯草を掻き分けながら飛び跳ねます。


キリギリスは今、昔の彼によく似た落ちこぼれキリギリス達の手助けをしています。

春からもまたどこかで、カウンターキッチンのない住まいで、飛び跳ねつづけるでしょう。



キリギリスは、母さんの短歌を口ずさみました。


「羽音立て 深蒼掻き分け 乗る風よ

君の大空 グラスホッパー」


何度も、何度も繰り返しました。


あの時、返歌は返せませんでした。照れくさかったのかも、申し訳なかったのかも、分かりません。

いつか立派になれたら、返歌をしたためて送ります。

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母さん見ててくれ。

俺は、この世界で絶対に羽ばたいてみせる!



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