『何で出来ないんだろう』と自己肯定感
『なんで出来ないんだろう、と思うことの根底には"自分なら出来る"という出発点がある。』みたいな文章を読んだことがある。
確か浪人生の時に読んだ「子供のまま中年化する大人たち」という本。全体はあまり覚えていないけどその1文には、ギュッと心が鷲掴みされた記憶がある。
大学に入学してから、何か壁にぶち当たるたび、なんで出来ないんだろう? と、その問いかけを自分に向けて発したことは数えきれない。
でもきっとそれは、『自分なら出来る』があったからだと思う。
『自分なら出来る』はずなのに、出来なかった、それがどうしようもなく辛くてもどかしくて自己肯定感が下がった。
『自分なら出来る』はずが崩れて、自分は何なのか、自分はどうなるのか、どうなりたいのかがボヤけていった感じがした。
でもきっとそれは、『自分なら出来る』があったからだと思う。
『自分なら出来る』はずなのに、出来なかった、それがどうしようもなく辛くてもどかしくて自己肯定感が下がった。
『自分なら出来る』はずが崩れて、自分は何なのか、自分はどうなるのか、どうなりたいのかがボヤけていった感じがした。
でもそもそも『自分なら出来る』は自分が思春期に作り上げた根拠薄弱で傲慢なまやかしで、それによって自分が苦しめられていただけなことに気もした。
別に全てのことが出来るわけじゃあないと思えれば、もう少し楽に生きれるんじゃないかななんて考えたりもした。
別に全てのことが出来るわけじゃあないと思えれば、もう少し楽に生きれるんじゃないかななんて考えたりもした。
思春期に、と言ったけれど『自分なら出来る』が無意識のうちに形作られたのは大学入学前までだったと思う。学校で教えられることは答えが決まっていて、評価の基準も決まっていて、その枠組みの中で生きていたし、生活の中で不可能な事なんて求められなかった。
だからその枠組みの中で『自分なら出来る』が育まれていったのかもしれない。
だからその枠組みの中で『自分なら出来る』が育まれていったのかもしれない。
少し話は逸れて、3ヶ月くらい前に高校の後輩の桑原と話した時に、桑原が話していた事を思い出した。
「最近よくフェミニズム的な話で女の子は生まれながらに『可愛い』のレースに乗せられていて、それを無視する事もそこから逸脱する事も難しいみたいな話を見たんですけど、男は男で『成功』のレースに乗せられていて無視も逸脱も同じように難しいって思うんすよね、そのレースでの負けは自分の存在の否定につながってしまうというか。」
「最近よくフェミニズム的な話で女の子は生まれながらに『可愛い』のレースに乗せられていて、それを無視する事もそこから逸脱する事も難しいみたいな話を見たんですけど、男は男で『成功』のレースに乗せられていて無視も逸脱も同じように難しいって思うんすよね、そのレースでの負けは自分の存在の否定につながってしまうというか。」
その話を聞いた時、思い込みで呪縛だと思った。
だけど、その後しばらく1,2週間はその事をふと思い出しては考え込んだ。
自分だってその思い込みや呪縛をある程度抱えて生きている。
そういうレースの実在はさておき、個人的には、少なくともそのレースの存在を嫌でも認めざるを得ないくらい近くに感じていたし、高校生活はそのレースに勝つ事を刷り込まれる事と同義だった。
大切なのは、そのレースで上を目指すこと以外の価値観を自分の人生の中で出会い、育んで、大切にすることでレースの価値観を相対化することなんじゃあないかなと思った。
高校を卒業したら、高校の時までの価値観が閉鎖的で自分の当たり前が世界の当たり前じゃないっていう事に気がつくチャンスは転がってる。
高校を卒業したら、高校の時までの価値観が閉鎖的で自分の当たり前が世界の当たり前じゃないっていう事に気がつくチャンスは転がってる。
話を戻すと、その成功のレースの価値観も『自分が出来ない』ことを受け入れ難くして、だから自分の存在が認められなくなっていたのかなぁ、なんて考えた。
自分が仲良くしている後輩の1人、和希はとっても尊敬できる。和希は自己肯定感も高いし精神的にもブレが少なくて安定してるように見える。
なんでかなぁ、なんて観察して、自己肯定感の高さの理由は分からなかったけど、和希の出発点は『何で出来ないんだろう』ではなく、『どうしたら出来るんだろう』にあることに気がついた。
「どうしたら出来るんだろう」には、現状を受け止める力もそこから解決を目指す力もあって、なんて力強いんだろうと羨望した。
なんでかなぁ、なんて観察して、自己肯定感の高さの理由は分からなかったけど、和希の出発点は『何で出来ないんだろう』ではなく、『どうしたら出来るんだろう』にあることに気がついた。
和希の自己肯定感の高さの所以はまた違うところにあったと今は思うんだけど、俺はその「どうしたら出来るんだろう」を真似したい、と強く思った。
この手の"レース"による自己肯定感が低いと、自分で埋められない自己肯定感の低さを他人に埋めてもらおうとしてしまう人も、事もままある。別に悪い事じゃないし、多かれ少なかれ誰だってみんなそうなんだろうけど、ともすればその他人に埋めてもらった自己肯定感の欠落は、その他人が去ればポッカリ空いてしまって、また誰かで埋めるまで空いたまんまになってしまうんじゃないかな、なんて思う。
それに、俺には、他の人から貰った肯定=自己肯定(自分という存在に対して疑いなく前向きでいること)にはならなかった。
だから俺は、『どうしたら出来るんだろう』精神と『成功のレース』とは別の価値観で、自分自身となるべく自分の力で付き合いながら、自分の人生を豊かで幸せにしていけたらな、なんて思った。
2020.06.25
コメント
コメントを投稿